晴レノ日ノキモノ

先日の十三詣りで、母親のわたしが着るのに選んだ着物。
祝い事の礼装自体、華やかだが、その中でもかなり明るく華やかな色柄のもの。
一年ほど前に、髙○屋の呉服の催事にふらりと出向き、リサイクル店の出店もいくつかあり、新中古なる部類と思われるこの着物と出会う。
おそらく付下げ訪問着かと思われる。
状態も良く、色柄も何度も言うように華やかで素敵だと一目惚れのような感じで手に取ってしまったわけだが、一目惚れとはいえ、自身が着るというつもりは無かった。
レンタル用にと思って購入し、いわば箪笥の着物レスキュー目的で、この着物に日の目を見せてあげたいといういつものわたしの癖(へき)である。
わたしが着付のご予約を下さるお客さまに、持ち物の不備があれば着付用小物は無償貸出、半衿が縫えない方、縫ってあるが縫い方に問題がある場合などの半衿縫い、適切な着物と帯選び、複数の小物の最適なコーディネート、不足アイテムの買い物同行など、可能な限り対応しているのは、人のためではなく着物さんのためである。
長くしまわれっぱなしの着物さんが日の目をみるには、着る人、着せる人、適材適所の場、 あらゆる条件が要るわけだが、それが叶うためにはそれらを叶えさせる人が要る。
ただただ純粋に、箪笥の着物に日の目を見せることだけがわたしの原動力なのである。
この着物は箪笥に入っていたわけではないが、おそらくほぼ未使用。
裄も短く身幅もやや狭く、背一五八センチのわたしでおはしょりもギリギリなので、小柄で細身の方に誂えたものと思われる。
レンタルするにも背格好は限られるが、それはまぁよい。ちゃんと着れる方が現れる、そういうものだ。
そんな馴れ初め?の着物さんを着た理由は、「適材」だったから。
もちろん、似合うかどうかが一番肝心なのでそこは無視出来ない。
意外と顔映りが良かったので、着れる機会があればと温存していた。
ただ、格や礼装としての条件は問題ないとしても、心情的な場が限られるというか、(わたしにとって)相応しいと思える(感覚になれる)場が果たしてあるか、というところ。
これは感覚的な話にもなるので、これ以上は書ききれないが、今回はその相応しい場だったということである。
息子が羽織袴で、夫が父の形見の大島紬、男の礼装(大島は礼装ではないが)は色目的には地味になるので、写真写りを考えるとわたしは大袈裟なくらい華があるほうがいい。
一人だけ浮くのとは違い、振り幅のバランスでそのギャップは全体の調和と親和性も生んでくれるのである。
そういう上品な派手さという要素がこの着物には備わっていた。
もし、息子でなく娘で、振袖を着るとなるとこの着物は絶対に選ばない。
主張しすぎて主役の邪魔になる。
娘の振袖としたら、わたしなら色無地 を選ぶ可能性が高い。
どんな振袖かにもよるが、落ち着いた雰囲気の訪問着、付下げか、でもやはり、一番邪魔をしない色無地にするだろう。
そういう相手とのバランス、立場を考慮し配慮する、これも着物の愉しみ方であり、嗜み。
余談だが、この着物を着るにあたり合わせる帯がなくて悩んでいた。
全くないわけではないが、ベストと思えるものがなかった。
予定の二週間ほど前に、姑が近々近江八幡へ引越すという従姉妹から着物を譲り受けに会いに行った。
そうして頂いたものの中に、この未使用の袋帯があり、あらまぁピッタリ。
着物を着る。
箪笥の着物に日の目を見せる。
ということは、そういうことだ。
揺るぎない疑いのない信念が、着物さんに日の目を見せられるのである。
決して、わたしがすごいのではない。
御役目とはこのこと。
奈みこ